東京ステーションギャラリー「岸田劉生展」この世の宝なるものを目指し
美術館巡り、空いていればなお良い(のだが)。
2019/8/31→2019/10/20 ギリギリで駆け込む
自分好みで、オリジナルな企画展が多く、割と足を運ぶ。今回は「麗子像」で有名な岸田劉生。
以前東京国立近代美術館で、土路の油絵を見るまでは、娘・麗子の肖像1本やりな画家かと思っていたら、それなりに奥の深い画家であった。
画家・岸田劉生(1891-1929)は、日本の近代美術の歴史において最も独創的な絵画の道を歩んだ孤高の存在です。(略)しかし、岸田劉生はただひとり、初期から晩年に至るまで、自己の価値判断によって、自己の歩む道を選択し、自己の絵画を展開しました。
「自己の絵画を展開」、それを気づかせてくれたのが今回の企画展であり、自分に刺さったポイントを紹介。短い人生におけるキャリアを、6つの期間に分けて展示されていた。
第1章「第二の誕生」まで(1907~1913)
年代として青春期、水彩画が多く当然絵としては完結していたけど、何かを目指している感じではなかった。
『白樺』同人の文学者たちとの交友を通して、真の芸術家としての生き方を学んだことにあった。
描くことは好きだけど、何を描くかは試行錯誤していたのかなと。
第2章「近代的傾向…離れ」から「クラシックの感化」まで(1913~1915)
肖像画がたくさん並んでいて...「劉生の首狩り」と言われていたらしい。それほどまでに、見ごたえがあった。
麗子嬢は生まれてないのか、似たような肖像画が多かったけど、すでに劉生らしさが現れていたのではと。
色で画くから画けないって「捨てれば画ける」ことがわかった
それでいて、風景画に取り組み始めたそうだ。
第3章「実在の神秘」を超えて(1915~1918)
肺病にかかり、室内で制作できる静物画に取り組み始めた時期。
先に言及した「土路の油絵」が、この「道路と土手と塀(切通之写生)」である。初めて見たときは驚いた。東京国立近代美術館の常設展では、多分誰にも邪魔されず(人がいない)に見ることができると思うから、また行く。
第4章「東洋の美」への目覚め(1919~1921)
ここで、東洋を意識し始めたことも発見であった。
「東洋の美」の伝統に目覚めるなど... として
単なる風景であった世界が麗子のいる世界へと変わる。劉生の幸福感が現れている。
(上記の画像)
- 5 ≪麗子坐像≫ 1919年8月23日 ポーラ美術館
第5章「卑近の美」と「写実の欠除」を巡って(1922~1926)
自分も初めて麗子像を見たとき、「自分の娘をグロテスクに描くもの?」と正直感じたけど、そこに卑屈な思いは感じなかった。むしろ、愛が深くなりすぎて、ちょっと違う方向に進んだのかと深読みをした。
矮小で醜くグロテスクな「卑近美」
卑近美と定義してしまえばそれまでだけど、そこにちゃんと思索があるから絵として成り立つのかなと。
「偉大な間ぬけさ」すなわち稚拙感や「写実の欠除」が現れる
(上記の画像)
- 3 ≪竹龍含春≫ 1923年4月9日 個人蔵
それと、劉生にも麗子嬢や土路以外に、椿や林檎の絵画もあるのが発見だった!
こちらの作品は、第6章の「新しい余の道」の作風に近いと思うが、展示では第5章にあった。
- 冬瓜葡萄図 1925年8月23日 泉屋博古館分館
冬瓜、かわいい。自分もすぐ写真撮りたくなる。
第6章「新しい余の道」へ(1926~1929)
「新しい余の道」の始まりを予見... としつつも、38歳の短い生涯を終えてしまう。麗子像とは全く違う画風が展開されていたが、あっけなくこの世を去ってしまった。
東京ステーションギャラリー外観
美術を見る(眺めるかな?)のは好きだけど、わかってないことも多い。というより、見ただけで終わっていて、理解もしようとしなかった。が、最近は自分なりにそれを見たことで、自分にとって何か新しいことを感じられるようになった気がする。
それが楽しくもあり、自分も年齢を重ねたYO。
これも良かった。 www.my47.info