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女サラリーマン、旅にお酒ときどきお金

祖父の引き出し

祖父から戦争話をもっと聞いておくべきだった

私は小学生の頃、母方の祖父(ファーマー・農家)に戦争の話を聞いておこうと、子供ながらに知っていた「戦争=悲惨」という予備知識を元に

私:おじいさん、戦争って辛かった? いつもお腹減ってたの?

と聞いたところ

祖父:いいや。バナナが食べ放題だった。

と東北弁で教えてくれた。祖父の戦地は「ガ島」、母達4姉妹はガダルカナル島だと言っている。そんな激戦地でも、バナナが食べ放題だったらしく、悲壮感はない。母達4姉妹は知らない話だった。

母にそのことを伝えると、彼女は詳細を確かめた。それによると、酒もタバコもやらない祖父は、配給されたタバコをかなりの高レートでバナナと交換できたらしい。母や祖母の話によると、終戦の翌年、祖父は命からがら戻ってきて、曾祖母たちは何かの生き血を飲ませたり…と看病したほどの戦地からの帰還だったはずなのに、祖父はいつでも楽しそうに嫌がらずに戦争話をしてくれた。バナナは常に祖父の好物だった。

そんなファーマーな祖父は旅好きでもあったので、祖父と母がいる前で

私:おじいさん、海外行ったことないでしょ? お母さん、連れて行ってあげなよ!

祖父:いいや、おりゃ(俺)行ったよ

母:あれ(驚き)? どこ?

祖父:ガ島

私:おじいさん、それ、旅行ではなくて、戦争だよ。

真面目一本槍でお酒は飲まないけど、コカコーラと缶コーヒーとバナナとプロレスが大好きな大正生まれの祖父は、真面目な顔で結構ギャグもかましてくれた。

年を重ねて、人はようやく過去を振り返ることができる

自分でもよく覚えていないが、散歩とかお使いとか、声をかけられるとおやつに釣られる訳でもなく、弟は付いて行かない子供だったけれど、私は嫌がらずに付いて行く子供であった。

小学生時代、仙台に住んでいたことがある。祖父が遊びに来たとき、一緒に近所の榴岡公園へ散歩に行った。そのとき、園内にある仙台市歴史民俗資料館を指差しながら、祖父は東北弁で

祖父:戦争に行くとき、あすこへ集められ、しばらく滞在した

と(いうようなことを)教えてくれた。懐かしそうに、いつまでも見て回るので、私は祖父が満足ゆくまで黙って付いていた。まだ小学生の私には振り返るほどの過去はなく、過去を振り返るという行為すら理解できずにいた。祖父が何を見て、何を考えているのか問うてあげれば、また面白い話をしてくれたかもしれない。そもそも、その建物を目当てで散歩に出たのか、土地だけが懐かしくて歩いていたら、予期せず建物が残っていたのか、今となってはわからない。

そんな祖父は2007年に92歳で、甥が生まれるのと入れ替わりのように、ひっそり亡くなった。100歳まで生きて欲しかったし、生きることができそうな体力&気力の持ち主だったのに、白内障手術を拒み、目が見えなくなって病院へ入ったらあっけなかった。

祖父の四十九日で、新幹線の出発まで時間があるからと、母達姉妹は榴岡公園を散歩したらしい。母は自分の姉や私の従姉妹に、私から聞き及んだ仙台市歴史民俗資料館の建物に祖父が招集させられた話をしたところ、誰もが初耳だった。

自分からは話をしない祖父だったけれど、話かけると結構喜んであれこれ話してくれる祖父だった気がする。ただ、私は外孫だったので、なかなか話をするきっかけをつかめずにいた。

私の母同様、地元(宮城県石巻市近郊)を離れて東京にいる2番目の伯母さんに言わせると、当時でもお米以外に、近所では誰も育てていないスイカやトウモロコシなど扱ってみたり、ヤギ買ったりと積極的な人だったらしい。また、身近で一番面倒をみた3番目の伯母さんに言わせると、東北電力債でかなり儲けたらしい。株ではなく債券であるところに、時代を感じる。そして、同居していた1番目の伯母さんは「90なのに10年定期を始めたから、あとまだ10年は生きるつもりだったらしい」と、言っていた。

祖父は、私好みのいろんな話がしまってある引き出しを備えていたに違いない。それを開けそびれたのは、残念である。 f:id:yfroot425:20140730012032j:plain 35年ほど前の祖父と祖母 @ 京都金閣寺

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